「よく来てくれたわね。」
お俊は明るい茶の間で坐っている小さいむすこの頭をなでた。気のせいか髪までが、こわくなっているようだった。それにからだはどれだけも肥っていないのに、顔だけがませているようであった。
「お母さまはずいぶん永い間待っていたの。ほんとによく来てくれたのね。」
むすこはちょこなんと坐って、ただ、うんうんと返辞をしているだけであった。あまり母親の眼を見ない、つとめてそんな機会を避けようとしているらしかった。お俊は丸い小さい手をさすりながら、
「お前はたんとお話がたまっているでしょうから、お話し。あれからお前のしていたことや、見たこと、それから外にまだ沢山あるでしょうから。」
むすこは黙って折々時計をながめた。むかしから下っている時計が物憂く動いて音を立てていた。
「お前はしかしどこから来たの。それを言ってごらん。」
「あそこから、――」
むすこは初めて返事をして、ちょっと右の手の指を通りの方へさした。母親は顔をよせてもう一度たずねた。
「あそこって、何処、川原かい。」
「ええ、川原。」
「川原のさきはどこを歩いたの。崖の上なの。」
「いいえ。」
「土手からかい。」
「ええ、土手……。」
「それから先さきは?」
むすこは「それから先きは忘れてしまった。」
と言った。全く忘れてしまったようなけろりとした顔貌であった。
「だってすぐ土手の上へ出られやしないでしょう、ものに順序があるものよ、たとえば川の上流からとか、かみの崖から下りて来たとかいう道順があるものよ、それをお母さまに聞かせて頂戴。」
「それは忘れた。」
「ほんとう?」
「ほんとに忘れた。いつでもぽっかりと土手の上に出るの、そのさきは歩いていたのか、歩いていないのか僕にはわからないの。歩いていたようにも思えるし、また、歩かなかったようにも考えられるの。いきなり何時でもひょっこり土手の上に出てくるだけなの。」
お俊は或いはそうかも知れないと思った。この子は頭にあるだけの記憶を話しているのらしい。この子はうそを吐つくことは無い、そう思った。しかし何故に忘れる事があるのだろう、みんな覚えていそうなのに、――お俊は物珍らしそうな顔つきでまた尋ね出した。
「お前はへいぜいどんなところにいるのか言ってごらん、お前のいるところの、いろいろなお前に覚えのあるお話しですよ。」